うけいれ全国 活動報告ブログ

保養・避難の裾野を広げるために、私たちの活動内容をお伝えします!

「受入活動の現場を振り返る」(早尾貴紀インタビュー)



受入活動の現場を振り返る

話=早尾貴紀(311受入全国協議会共同代表、東京経済大学教員)
聴き手・構成=田口卓臣
日時=2017年9月4日(月)
場所=東京経済大学国分寺キャンパス 早尾研究室

「311受入全国協議会」の活動
田口 基本的なところからうかがいます。「311受入全国協議会」とはどういう団体なのか教えてください。

早尾 一言で言うと、原発事故被災地に住む人たちを、全国で受け入れていこうという趣旨で動いています。受け入れ期間の長短は、問いません。数日とか、週末だけリフレッシュしたい人を受け入れるケースもありますし、長ければ夏休みの間中、被災地の外に出たいという人を受け入れるケースもあります。もっと本格的になると、移住希望者を受け入れる場合もありますね。「受入全国」は、そういった保養と移住の受け入れ活動を、大半の団体が手弁当でやっている日本全国の団体のネットワークです。助成金をもとに活動している団体はひじょうに限られています。ただ、ここ最近の実態を言いますと、移住の問い合わせはほとんどなくなっていて、もっぱら保養やリフレッシュの支援活動をやっている団体のほうが圧倒的に多いです。ごくたまに移住相談が出てきたときには個別に対応するというのが現状です。

田口 移住の相談が減っているというのは、どういうことでしょうか?

早尾 2011年、12年の頃は、「できたら移住したい」という声がたくさんありました。ただ、移住できる人は早い段階で移住していきます。一方、本心では「汚染がない所で暮らせればそれに越したことはない」と思っている人であっても、仕事のこと、家のこと、親族のこと、学校のことをトータルで考えたときに、そこまでするのは現実的じゃないよね、という判断になったり、あるいは踏み切れないまま判断を回避したり、ということになるのだと思います。そういった人たちは移住まではしないけれども、継続的に子どもを保養に出すという方法をとったり、日常のなかで被曝を避けたり、というところでバランスをとっているようです。
そういうわけで、移住の相談は、11年、12年、13年、と年を追うごとに明確に減っているんですね。ただ、保養の需要はコンスタントに続いています。毎年のようにあちこちで相談会をやってきましたが、保養相談の来場者がガクッと減ることはありませんでした。

団体名の繊細さ
田口 もっぱら原発事故被災者の受け入れ活動をしてきた、ということですね。ただ、「311受入全国協議会」という団体名だけを見ると、その点は必ずしも明確ではない気がするのですが、いかがでしょうか?

早尾 この団体名には、繊細な問題が控えています。実をいうと、僕自身は当初、別の団体名を提案していたんです。原発被災地からの受け入れをやるという意図がきちんと伝わるようにしよう、と考えていたからです。一度はその方向で話がまとまっていたんですが、被災地の中で活動している何人かの方々から、「2012年現在の時点では、この名称は正直きつい」という指摘がありました。「原発事故被災者受け入れ」といったメッセージを前面に押し出すと、行政からも世の中からも、それだけで構えられちゃうんだ、と。
じゃあ、どうしようか、ということになって、「311」っていえば何となく分かるよね、「受け入れ」っていえば誰を受け入れるかは伝わるよね、という見方で一致して、最終的に「311受入全国協議会」、通称「うけいれ全国」に落ち着きました。

田口 軋轢を生むネーミングは避けよう、という判断ですね。その点でいうと、2011年夏に宇都宮で行なわれた原発避難者交流会のことを思い出しました。この企画には、難民問題に関わっている団体の助成金が出ていたのですが、そのことを知ったお父さんの一人が、「おれたち、難民かよ」ってつぶやいたんです。避難を選択した当事者でも、直接的な言葉には抵抗を感じるようです。ところで、ネーミングという点では、「受入」、「全国」といった言葉も特徴的ですね。

早尾 そうですね。厳密にいうと、発足時点では「受け入れ」に特化して全国の団体をつなげていたんですが、1年後くらいからは、被災地の中から当事者を「送り出す」団体のネットワーキングも手がけるようになりました。
 この辺に関しては、色々と複雑な事情があります。まず何よりも、保養の相談会を積み重ねる中で、被災地の中の団体が抱えているシビアな背景が見えてきました。被災地は、誰もが原発事故という災害の当事者ですから、とにかく余力がないというか、自分自身のことだけで精いっぱいという厳しい現実があるんです。現場に入ってみるとよく分かりますが、「健康被害」の問題ひとつを取ってみても、今回の原発事故が原因なのかどうかを問い始めると、実に様々な立場があります。当然、保養に出る出ない、避難するしない、移住するしない、という問題についても、立場や考え方の違いが出てきますし、そのことをめぐって人間関係がギスギスしたりとか、ギスギスを避けようとすると、ものが言いにくくなったり一種のタブーが生じたりもします。そこに追い討ちをかけるように「復興、復興」と国を挙げての圧力が加わるわけですから、いっそう保養や避難の話がしづらくなっていきます。要するに、ある時期以降、被災地の中で一つのまとまった運動をつくることが、本当に難しくなっていたんです。
 であれば、外にいる僕らが、中で活動している団体をつなぐべきではないか、という話になって、受け入れ側と送り出し側、それぞれの課題に向き合いながら、「うけいれ全国」の内側に被災地からの送り出しのグループを作りました。それ以降は、それぞれのサイドが両輪となって活動を進めてきました。

「原発事故被災地」とは何か
田口 「原発事故被災地」という言葉についてうかがいます。気になるのは、それはどこなのか、という点です。例えば、私が住んでいる栃木県の北部には、福島県内よりも高濃度の汚染を受けた地域があります。この点に関して、「うけいれ全国」はどのような考え方をとっていますか?

早尾 「うけいれ全国」のスタンスとしては、「汚染地域」、「被災地域」という言い方はしますけれども、イコール「福島県」ではありません。おっしゃるとおり、福島県内の各地と同等か、場合によってはそれ以上の汚染をこうむった地域は、東北や北関東のあちこちに点在していますから。実際、「うけいれ全国」の中には、宮城県とか栃木県で送り出し側として活動している団体も加入していますし、受け入れ側のグループも、一定の放射能汚染を受けている地域は「被災地」と捉えて、分け隔てなく受け入れる方針でやってきました。加入団体には、「福島県民」、「福島県在住」といった保養参加条件の限定はやらないでほしい、とお願いしています。
 そもそも論になってしまいますが、「福島」という括り方は様々な問題があると僕は思っています。何よりも福島県は、広大な県です。同じ県内でも地域差が非常に大きくなるわけです。例えば、僕は郡山生まれですけど、郡山の人からすると、「福島」というのは福島市しか指しません。僕のおじもおばも福島市に住んでいますが、親族内では彼らの所に行くことを、「福島に行く」という言い方をしてきたわけです。つまり、同じ中通りといっても、北部にある福島市と、中部から南部にある郡山市、須賀川市とでは、文化圏が違うというか、言葉や意識がぜんぜん違います。とくに福島市と郡山市とのあいだでは、どちらが中心なのかという対抗意識さえあります。
さらに言うと、中通りと浜通りとでは、阿武隈山地を越えただけで、人や物の流れ、言語文化などが、がらりと変わります。浜通りの相馬地区は常磐線と国道6号線で直結している仙台との結びつきが強くて、同じ県内でも山を越えた福島市と往来しあうというのは現実感が乏しいわけです。さらに中通りからさらに山の向こうには会津地域もありますから、とにかく「福島」という一つのまとまりで括るのは無理な話です。こういう意味から言っても、「うけいれ全国」がいわゆる「福島」ではなくて、「原発事故被災地」という条件を掲げていることは重要だと思っています。
 ただ、活動してきた団体によっては、色々と現実的な事情もあります。特に原発事故発生からまもなくの2011年にいろんな団体ができた段階で、「福島の子どもたちを守る会」とか、「福島の子どもたちと共に」といった団体名を付けたところがあります。すでにその名前で周知されていますし、この名前のほうが寄付を集めやすいという事情もあるようです。そういう団体からはよく、「団体名まで変えるのは難しい」という指摘をいただきます。「うけいれ全国」としては、とにかく栃木や宮城に住んでいるからというだけで保養に参加しづらくなる、というような状況は避けたいんですが、さすがに立ち上げ時に付けられた名前まで変えろとは言えません。

田口 実際に福島県以外から保養に来たというケースはあるんですか?

早尾 あります。特に関西についていうと、福島県からよりも、栃木や茨城からの参加者のほうが多いという受け入れ団体がけっこうあります。例えば、京都で2011年からずっとやっている「ゴー!ゴー!ワクワクキャンプ」からは、茨城からの参加者が一番多いというふうに聞いてます。「どこそこのキャンプは、栃木からも茨城からも受け入れてるよ」という情報が、口コミで伝わっているそうです。

震災直後の状況
田口 キャンプの話が出たので、うかがいます。早尾さんが保養支援に関わるようになったのは、いつからでしょうか? また、どのような背景や経緯で関わられたのでしょうか?

早尾 僕は311直後、自分の子どもを関西に避難させたんですが、その後すぐに、京都での保養活動の支援を始めました。いまお話しした「ゴー!ゴー!ワクワクキャンプ」の元になるキャンプは、2011年5月のゴールデンウィークに開催しています。
震災直後の関西は、緊急避難の受け入れ活動がどんどん広がっていました。「どこそこでこういう避難者サポートをやってるよ」とか、「シェアハウスで何人、教会で何人、お寺で何人、避難者を受け入れてるよ」とか、そういった情報が、京都、大阪、奈良、広島、岡山、それから沖縄からも入ってきました。もともと西日本にも大学研究者の知り合いが多かったこともあって、僕が関西に避難しながら、後続の避難相談窓口になったために、情報が集まり出したのですね。その当時は、インターネットと口コミでどんどん拡散されていました。
 当時のものすごい緊迫感というか、先行きの分からなさは、関西でも、福島県内でも、独特のものがあったと思います。原発事故が収束するのかしないのか、汚染はどこまで広がっていくのか、実際のところが何一つとして分からなかったですからね。そんなわけで、東北や関東の全体として見てみると、原発避難者というのは住民のごく一部だったのかもしれませんが、2011年3月中だけの緊急避難、特に母子だけの緊急避難という点で見ると、全国各地に避難した世帯は、相当数にのぼっていたんじゃないかと思うんです。こういう数字は、公的な統計には絶対現れないものですけど。
 震災直後の福島市内は、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」(以後、「子ども福島」)という活動が立ち上げられて、僕もしばらくのあいだ、そこで「保養班」の活動をやっていました。福島市で開かれた「子ども福島」を結成するための最初の集まりは、百人以上の参加者がいたんですが、これだけ大人数になると普通の話しあいなんてできませんから、十何個のテーブルに分けて、1テーブル8人から10人ぐらいという感じでグループトークをやったんですね。そのときはほとんどみんな、口を開くと「3月中は母子避難してました」と言ってました。多くの人は、首都圏を避難先にしていたようですけれども、北海道とか、遠く関西まで行っていたという母子もいました。
 で、4月になると、なんと福島県内の学校が、ほぼ通常通りに新学期を始めるというニュースが報道されたわけですね。僕は関西にいて、衝撃をもってこのニュースを受け止めていました。さっきも言ったように、まだ汚染状況はなんにも調べていないのに、被曝の基準なんて何ひとつ分からない中で、学校を始めちゃったんですね。当時、宮城県のほうは、地震と津波の被害が大きすぎて、4月中は学校を始めるどころの話ではなかった。ところが、福島県はもちろん首都圏よりも地震津波ははるかに大きかったですけれども、とくに中通りのほうは津波が届きませんでしたし、宮城県に比べれば地震被害も比較的軽かったということもあって、とにかく平常通りに始めよう、という流れになった。そうすると「学校が始まるなら、子ども連れて帰んなきゃ」ということで、あちこちに避難していた母子も戻らざるを得なくなった。あの新学期を始めるという判断は、本当に大きかったと思います。
そうこうしているうちに、新学期開始から1週間くらいすると、「20ミリシーベルト問題」が出てきた。「人間は、年間20ミリシーベルトまで被曝してもOKだ」と、とんでもない話が急浮上したわけです。
 関西に子どもを避難させた僕の感覚で言っても、「そんな基準で学校なんかやって、本当にいいのか」と。関西で周囲にいた人たちも、すごく心配してましたし、そんな所に人が暮らしていいのだろうかとか、さっさとこちらに移住すべきではないのかとか、色んなことを思ったり言ったりする人たちがいました。ただ、移住というのは口で言うほど簡単じゃないですし、遠くにいると被災地のリアリティーが実感できないというか、人が動くとはどういうことか、家族がごっそりと移住するとはどういうことなのか、想像力が働かなくなるんでしょうね。簡単に心ない発言をする人もいて、僕としては複雑な気分でもありました。

田口 新学期が始まってからの福島県内の様子はいかがでしたか? 色々と大変だったのではないかと想像するのですが……。

早尾 「子ども福島」のグループトークに限って言えば、避難者と残留者の関係や、同じ避難者同士でも強制避難者と自主避難者の関係は、シビアなものがあったと思います。
 緊急避難しただけで周囲から「自分らだけ逃げた」と責められた母子もいましたし、「お宅は20キロ圏内だから避難させてもらえていいよね」なんて言われた人もいたようです。20キロ圏内は文字通り惨憺たる状況ですから、こういうやっかみは理不尽きわまりないと思うんですが。
 それから、夫の仕事関係で、「あそこは教員をしてるのに逃げた」、「あの人は公務員をしてるのに逃げた」、「自分だって金と時間があれば逃げたかったんだ」と口走る人もいました。その時点で、断絶というか分断がはっきりとあって、特にお母さんたちはみんな、声を詰まらせて泣き出してしまうという状況でした。

田口 逆に言えば、互いにどのような経験をしたのかを吐き出す場が必要だったということでしょうか?

早尾 そういう側面もあったと思います。「これからどうする」とか「何ができる」とかいう前に、とにかく一人一人の思いを口にできる場所が必要でした。ちゃんと聞いてくれる人がいて、同じような体験や、同じような思いで苦しんでる人がいる、自分だけではない、ということが確認できる場所ですね。

田口 とすると、なかなか具体的な保養の話は出にくかったのではないでしょうか?

早尾 おっしゃるとおりです。僕がいたテーブルでは、たまたま僕が司会と記録をやっていたのですが、お母さんたちはさめざめと泣いたり、声を詰まらせたりして、打ち明け話がいつまでたっても終わらないわけです。困ったな、時間が迫ってくるなという状況下で、そのグループにいた一人の女性が、とつぜん切りだしたんですね。「そろそろ、これからどうするかという話に切り替えたいんですけど」って。彼女はまもなく北海道へ母子避難の決断をするんですが、その時点では「除染をどうするか」、「汚染された土地をどんなふうに事故前の状態に戻すか」ということに強い関心を寄せていました。とにかく、「これからどうするかが大切なんだ」と鬼気迫る勢いで語っていました。たぶん、具体的に動ける同志を求めていたんだろうと思います。
 そこから次第に、今度のゴールデンウィークに京都で保養キャンプをやるんだけど、みなさん来ませんか、と言える雰囲気が出来ていきました。

田口 「ゴー!ゴー!ワクワクキャンプ!」ですね?

早尾 はい。当時はそういう名前ではなかったんですが、何はともあれゴールデンウィーク・キャンプが京都で開かれるということで、その場でチラシを配りました。というのも、保養のニーズは確実にあったからです。4月の新学期が始まった段階では、「避難する」、「移住する」という選択はかなり難しくなっていましたし、ほんの少しだけ緊急避難した人たちに対してさえ、周囲からネガティブな発言が集中する状況でしたから。
 話は前後しますが、「子ども福島」準備のミーティングの少し前に、京都で集会があったんです。僕はその場で、避難者として話をさせてもらいました。「20ミリシーベルト問題」の理不尽さについても説明しましたし、今後も避難する人は出て来るはずだから、そういう当事者をきちんと支援していく活動が必要だということを、マイクを持って訴えました。そうしたら、京都精華大学の卒業生たちが、「キャンプ」のアイディアを出してくれたんです。留学生がみんな帰国しちゃったから、いまは留学生会館ががらっと全部あいてます。そういった施設を宿泊用に使って、キャンプをできるのではないか、というんですね。彼らは最初、「夏休みにやりたい」と言っていたんですが、僕がサポートするからもっと早くやりましょう、と逆に持ちかけてみました。「ゴールデンウィークに出かける」ということなら、被災地の人たちも「逃げた」などと文句は言えないだろう、という計算もありました。ただ、何といってもみんな素人ですから、夏休みに本格的なキャンプをやる前に、ゴールデンウィークに3泊4日とかでもいいから一回やってみよう、と。そうすれば、どんなことが必要なのか、どういう体制でやっていけばいいのか、課題も見えてくるはずだ、という考え方です。こういう次第で、ゴールデンウィークに前倒しする形で保養キャンプが実現しました。

国は何もしなかった
田口 かなり早い時期に活動を開始されていたんですね。当時、そのような支援を手がけていた団体は他にあったのでしょうか?

早尾 チェルノブイリ事故の頃から保養支援をしていた団体は、かなり早くから動いていたと思います。チェルノブイリ事故の被災地ではずっと保養を推奨してきましたし、日本でもその事実を知っていて、被災者の子どもたちを受け入れる活動がありましたから。もちろん、福島原発事故の後で急速に学習が進んだという面もあります。原発とか被曝の問題にそんなに関心がなかった人たちの中でも、放射性物質の種類、単位、特性、起こりうる健康被害はどういうものなのかについて、かなり短期間に学習が進んだと思うんですね。体内被曝のこともいち早く語られてましたし、体内半減期はどのくらいなのかとか、体内にたまった放射性物質を排出するには、汚染された場所の外に出なきゃいけない、しかも最低でも何週間か出ないと効果がないとか、放射性物質が体内に入らないようにして、どんどん出す一方にすることで体内の放射性物質のレベルは下がるんだとか、こういった話があっという間に広がっていきました。
 3月、4月、5月と時間がたっていく中で、被曝による健康被害の可能性をできるだけ避けようとするなら、やはり汚染地域を出て、日常的な被曝状況から離れるのがよい、という考え方を共有する人たちのネットワークはかなり広がっていたと思います。

田口 そういう流れが、「うけいれ全国」の生まれる背景になったわけですね。

早尾 正確にいうと、その時点ではまだ「311受入全国協議会」が生まれる素地ができていたわけではありません。一方では、福島県の中にできた「子ども福島」が象徴的に知られていて、僕も「保養班」としての活動を開始していました。他方で、福島県の外からも「大変なことが起きた、自分たちも受け入れをしたい」と働きかけを始める団体が出てきました。一気にあちこちで自然発生的なネットワークが生まれていったというのが震災直後の実情だと思います。
 YWCAYMCAの動きも速かったです。日頃からキャンプをはじめとした子どもの活動の実績とノウハウがありますし、全国的なネットワークやパイプを持ってますから、北海道や京都でキャンプを企画して、福島県の内部での保養希望者の募集も、かなり迅速に始めていました。あとは生協ですね。生協も全国のネットワークがあるので、各地で受け入れ態勢を作って、被災地の生協と連携して保養を募集していました。

田口 国の行政とは別のところで、セーフティーネットが機能したということでしょうか。

早尾 そのとおりです。ただ、2011年の夏休みにはある種のフィーバーがあったというか、みんなで手探りでできることをやろうという熱気が上向いていました。ところが、夏休みが終わると、何となく一段落しちゃったんですね。当時は、全国に保養希望者を送り出していた団体に外のパイプができたので、「これをきっかけに移住につながるかな」とか、「すぐに完全な移住とは行かなくても、色々なネットワークが広がるかな」とか期待してた部分があったんですが、そうはならなかった。つまり、3月の緊急避難があったけれども、4月に学期が再開して、正常化しようという強い動きが生まれた。夏休みになると、全国の保養キャンプ運動が盛り上がったけれども、結局、2学期が再開すると、また正常化の動きに戻ってしまうわけです。そんな中で、1学期の間はずっとマスクをしていたのに、夏休みを過ぎたらマスクを外してしまう子どもが増えた、という話をよく聞きました。

田口 戻った先で、ということでしょうか?

早尾 そうです。子どもにとっては、ずっと気にし続けること自体が、大変なんです。親にとっても、大変ですよね。「ああしちゃ駄目、こうしちゃ駄目、さわっちゃ駄目、マスクは取っちゃ駄目」と言い続けるのは疲れますから。そうやって正常化がどんどん進んでいったんだと思います。それに対して、受け入れ側の団体がやきもきするんですね。相談件数が少なくなって、汚染地の外に出て来る人の動きがなくなって、大丈夫なのか、これから学期の間、本当に普通に過ごすのだろうか、と心配になってくるわけですね。
 ちなみに、さっき「子ども福島」の立ち上げのときに知り合った女性の話をしましたが、その後、5月の半ば頃に、僕とその人とで協力して、郡山市で矢ヶ崎克馬さんの講演会を開催したり、また彼女は20ミリシーベルト基準の撤回の行政交渉の活動もしたんですが、その交渉の最中に須賀川市に置いてきた彼女のお子さんが大量の鼻血を出すという一幕がありました。これがきっかけで、その人は「こんなことしてる場合じゃない」と頭を切り替えて、北海道に母子避難をしました。その北海道で、震災支援をしていた「札幌むすびば」という団体のみかみさん(現在の「うけいれ全国」共同代表の一人)とつながることになったんです。

「うけいれ全国」の開始
早尾 「むすびば」は、正式名称は「東日本大震災市民支援ネットワーク・札幌」で、現在は「みみをすますプロジェクト」という名前のNPO法人になっていますが、とにかく5月に北海道に避難されたその女性とみかみさんがつながり、そこで「関西方面で保養や避難の支援活動をやってる早尾というのがいるから、札幌でも今後の活動の展開のために彼を呼んで学習会をやろう」という話になって、翌6月には僕も札幌に呼ばれて行きました。
 みかみさんとの出会いは大きかったです。最初の夏休みの保養が一段落して先ほどの正常化の動きが進む秋には二人で福島県内に入って、「まちかど相談会」を始めました。汚染地の外で「なんで相談が減ったんだろう」とか、「そこは危ないのに、なんで動かないんだろう」などと言っていてもしょうがない。こっちから行かなきゃっていう意識で始めたのが「まちかど相談会」です。最初はカフェスペースみたいなところを借りて、3家族、4家族くらいの相談に乗るという小さな規模のものでした。そこから段々、被災地の中にいる人たちの状況や思いが少しずつ分かるようになっていきましたし、全国の保養や避難の活動団体はいっぺん被災地に足を運んで、面と向かって被災者と話す場を持たないとダメだ、という認識がおのずと明確になりました。最初の夏休みのようなお祭り騒ぎは続かないので、全国の団体が被災者と直接話をして、団体同士でも横のつながりを持っていく、という流れになったわけです。そうやって開催したのが、「放射能からいのちを守る全国サミット」です。2012年2月に福島市で開催しました。

田口 「全国サミット」では、どのような活動をされたのでしょうか?

早尾 2日間に分けて開催したのですが、初日は、各種の報告会や学習会をやりました。例えば、各団体の取り組みに関する発表とか、保養活動や健康診断、放射能測定など、テーマごとに分かれたワークショップも開きました。それから2日目にやったのは、保養や移住に関する規模の大きな相談会です。全国から50団体以上が参加する大相談会となりましたが、僕がその取りまとめ役でした。

田口 相談会での皆さんの反応はいかがでしたか? 

早尾 この時点でも色々な相談がありましたが、終わった直後から他の場所でももっとやってほしい、という要望がありました。それで福島市だけじゃなくて、すぐに翌3月には郡山市と須賀川市でも相談会を開きました。受け入れのために相談会に来たのは10団体程度だったので、規模自体は小さかったですけれども。
 こうやって2012年の夏休み前には、二本松市、伊達市、白河市、白石市(宮城県の最南部で福島市に隣接する)といったように、もっと開催する地域を広げていきました。そのつど来る団体とはどんどん仲が良くなっていくので、せっかくだから、よく相談会に来る団体がネットワークのベースになったほうがいいよね、という話に自然となりました。
 こういう形で、僕とみかみさん、隣の山形で週末保養をやってる「毎週末山形」という団体が中心になって、さらに西日本からも共同代表を出してもらって、「共同代表」を四つにする、という形式で進めていくことになったんです。「全国ネットワーク」なのだから、「代表」を一人ないし一つに集中しないように地域性も配慮したわけです。実は、僕は「子ども福島」がある時期から「代表」の件で色々と問題を抱えていたのを間近で見ていたので、その失敗の教訓もこめて、「代表は1人にしない」という方針を立てたんです。代表を一人にしなければ、例えば誰か一人が抜けたり交代したりしても、ネットワーク全体がつぶれることはありませんから。汚染地域の近隣ということで山形、それから北海道、関東・中部、西日本というふうに地域バランスもとりながら共同代表制でスタートして、これまでに西日本の代表は交代も一回ありました。
 さっきもお話ししたように、被災地の中は本当に色々と苦しいんですね。自分自身の生活や日常があって、しかも誰もが被災している。そういう汚染地域の当事者が避難や保養の問題を取りまとめるのは無理があるだろう、という判断も働きました。だから受け入れ側の地域から様々な形で、しかも共同代表制という形で動いていこう、というのが2012年時点でのコンセンサスだったんですね。

2012年保養相談会の様子
田口 2012年に開催された保養相談会の様子について、具体的に教えていただけませんか?

早尾 2012年は、2月、3月、6月、11月と開催したんですね。特に6月、つまり夏休み前の二本松と伊達でおこなった相談会のときは、異様な雰囲気というか、鬼気迫るものがありました。来場者数もすごいたくさんで、伊達の相談会だけでも、ゆうに150家族、300~400人くらいはいたと思います。

田口 すごい数ですね。

早尾 会場がごった返しで、相談ブースも順番待ちになりました。それから、保養案内のチラシもみなさんがわーっと集めていく感じで、とにかく鬼気迫る感じでした。一方で、 公共施設で会場を予約しようとすると、原発事故、汚染、被曝、避難、保養という言葉はNGでした。そういう言葉を出すと、会場自体を貸してもらえなかったんです。「サマーキャンプの説明会です」と言わないと、会場も借りられないし、チラシもまけなかった。だから、僕ら開催側も神経を使いました。もちろん相談者のほうも、この夏休みをどうしのぐのかという点でピリピリしてたわけですが。
 受け入れ体制が徐々に整いつつある、組織だった相談会というのを、夏休み前に初めて開催したこともあって、ここに行けば保養とか避難の情報が得られるとか、そこに行けば子どもを保養に出せるとか、ここでの生活に不安を感じていることを共有できるとか、そういう場になっていったのかもしれません。その後の相談会でも、この傾向は強まっていくんですけども、本当に2012年の段階で、すでに「まだ避難とか言ってんの?」、「もう1年以上過ぎたでしょ」という世間の雰囲気でしたから。

田口 その頃はもう、社会的にはっきりとそういう空気でしたよね。

早尾 切り替えは早かったですね。社会的に「いまさら避難なんて」という中で、特にお母さんたちに負荷が集中していました。この国では元々、「母親は子どもの日常生活に責任を負うべきだ」という考え方をするんですね。「ちゃんとしつけてんのか」、「きちんと面倒見てんのか」と、何かあるとすぐに母親のせいにされる。その構図の上に原発事故が起きると、お母さんは何から何まで一人で抱え込まなければならなくなる。
 その一方で、周りからは「もう気にするな」、「地元の野菜を普通に食べろ」と親戚が介入してきたりする。それを避けようとすると、「神経質だ、過剰反応だ、みんな普通にしてるんだぞ」と有形無形のプレッシャーもあります。子どもの被曝を避けようとすると、すべて自分が盾にならなくてはいけなくなるんです。だから、当時からお母さんたちが疲弊しているという印象でした。

近年の相談会の様子
田口 さっき、2012年の相談会に来た当事者は150世帯、というふうにおっしゃいました。参加者の多くは、やはりお母さんたちだったのでしょうか?

早尾 2012年の相談会は、圧倒的にお母さんたちが多かったと思います。ただ、2014年、15年頃から、お父さんの参加が増えてきている印象です。震災からこれくらいの時間が経っても相談に来る家族というのは、お父さんもある程度理解していて、移住ができないんならせめて保養が必要だろう、という判断が働いているんだと思います。
 それから、震災後に生まれた子どもたちの家庭も増えてきています。現時点での未就学児は、要するに震災後に生まれた子たちですから。いずれにしろ、そういった家庭のお父さんたちが保養の意義を理解しているということは、夫婦間のコンセンサスがきちんとできているということだと思います。

田口 相談会に来るのは比較的小さい子どもを持っているお父さんお母さん、という理解でよろしいでしょうか?

早尾 そうですね。相談会に来る年齢層でずっとコンスタントに続いているのは、小さい子どものいる家庭ですね。中学生以上になると、もう子どものほうも親の思うように行動するわけではなくなってくるので、キャンプにやって来るのは必然的に、未就学児とその親、小学生とその親、といった層が中心になります。興味深いのは、震災から6年経った今現在も、新しく生まれてきた子どもたちの保養のニーズが続いているという事実です。このニーズは一貫して消えていません。

田口 つまり、何年か前に相談会に来た家庭に新しく子どもが生まれて、もう一度リピーターとして相談会に来る、ということでもないわけですね。

早尾 そうですね、そういうケースもあると思いますが、この数年はどの相談会でも、参加者の2~3割くらいでしょうか、「初めて相談会に来ました」「保養も初めてです」という層が変わらずいます。震災時は結婚していなかった人たち、あるいは子どものいなかった人たちが、子どもが生まれて外遊びをするようになってくる。そうするとだんだん心配になってくるんですね。まだ歩けないぐらい小さくて家の中にいる分にはいいとしても、1歳を過ぎて裸足で外歩きしたり、いろいろと口に入れたりするようになってくると、「本当にここでわが子を遊ばせていいんだろうか」と不安を覚えるようになった、と。そんなふうに話す参加者が結構います。年を追うごとにそういう層が増えているという印象です。その現象と、お父さんの参加が増えてきているということとは、一定の関係があるのかもしれません。

田口 それにしても、なぜなんでしょうか?

早尾 明確な理由は分かりません。ただ、原発事故から何年も経って、周囲では風化が加速していく中で、それでも「保養」の必要性を共有するには、強いモチベーションが必要です。ただのサマーキャンプではないですし、子どもの将来を考えた家族内のコンセンサスとモチベーションなしには続けられないはずです。

田口 お母さんたちが夫に放射能の勉強をさせた、というケースは考えられないでしょうか?

早尾 そういうケースも耳にはします。無理やり説得しようとしても夫が聞きたがらないので、さりげなく保養に関する記事を見える場所に置いておいた、みたいな話ですね。ただ、僕の周りでは、父親主導の保養参加や移住相談というのも、そんなに珍しくないんです。むしろ、全然ピンとこない妻を説得するのが大変だった、という話もよく聞きますし、僕らが山梨でやっている「いのち・むすびば」(名称は「札幌むすびば」からの暖簾分け)に来て話をするのは、お父さんたちも多いです。お母さんたちのほうが「ついてきました」って顔をしていて、保護者同士の話しあいに加わらないようなケースもありますから。
 今まで相談会の運営だけで手いっぱいだったので、これはあくまでも漠然とした印象に過ぎないんですが、2012~13年はとにかく子どもを外に出すための情報をひたすら集めているという印象の参加者たちが多かった気がします。ただ、年を経るに従って、参加者の人数も、大幅に減るわけではないにせよ少しずつ落ち着いてきていますし、少なくとも2012年のように、人が殺到してくるという感じではなくなってきています。色々な意味で落ち着いているのかな、と。

田口 現状ではどのくらいの参加人数があるのでしょうか?

早尾 福島市、郡山市、いわき市のような大きな都市でやると、100世帯近く、人数で250人くらいになるときもあります。ただ、須賀川や二本松のような所でやると、もうちょっと少なくなって、50世帯くらいでしょうか。
1回の相談会はだいたい半日くらいかけてやるわけですけど、参加者も一気にわっと来るわけじゃない。少しずつやって来て、ずっと会場にいて「久しぶり」って、参加者同士で、あるいは前に参加したキャンプの主催者と挨拶しあっている方たちもいます。「今まで複数の団体の保養に参加してきて、今日はその受け入れ側の人が相談ブースに来るから挨拶にきました」という方もいますね。保養情報そのものはネットでも取れるし、去年保養に行った団体とはじかに連絡が取れるわけですが、それでも相談会の会場に来る人が一定数います。どっかの保養で一緒になった人同士があらかじめ連絡取り合って、会場で待ち合わせするケースもありますね。
 僕もよく、去年お世話になったので「山梨の皆さんで分けてください」って、お菓子をいただいたりします。相談会がコミュニケーションの場というか、緩やかなコミュニティーのようになってきている。この活動を始めて3年目か4年目あたりから、こういうほのぼのとした光景も見られるようになりました。

田口 ここなら色んな人と安心して話せる、そういう場として機能しているわけですね。

早尾 そうですね。毎年のように山梨に保養に来る人たちもいれば、それがきっかけで、今度は北海道、関西、沖縄まで足を伸ばしてみたという人もいます。「子どもが高学年になって、子どもだけのキャンプに2週間行けたんです」、「初めての保養を山梨で受け入れてもらえたおかげで、ワンステップ進むことができたんです」と報告しに来てくださる方もいます。この相談会も相応に年を重ねたんだな、と感じます。
 ちなみに、子どもが中学生になっても保養に来るというケースを見ていると、色々な意味で面白いことに気づきます。そもそも中学生を対象に保養の受け入れをやってるところは少ない。じゃあどうするかというと、小学生のキャンプに、「お姉さん」「お兄さん」的な役割で参加しているというケースがあります。もうずっと保養キャンプに参加してきたということで、半分はスタッフと同じように運営に関わるようになった子たちもいる。今年やった山梨のキャンプでは、事故当時、小学生だった子がもう中学2年生になっています。で、キャンプに来た下級生の子たちがケンカを始めると、そのお兄ちゃんが場をまとめてくれました。こういう点でも、相談会の場そのものが少しずつ成長しているのだと感じています。

世間のイメージと現場のずれ
田口 受け入れの活動を続けてきて、どんなところに現場と世間のずれを感じますか?

早尾 世間から見ると、保養の活動は、ある種の活動家たちがやっているといったイメージがあるかもしれないですが、実際に参加している人たちは、ごく普通の人たちなんですね。政治的な関心を持っていないというわけではないですが、年がら年中、政治の話をしてるわけではないですし、普通の人が普通の生活の中でやりくりして、保養に参加しています。
 受け入れの活動をしてる人たちもそうです。もちろん、原発のことに関心はあるし、それぞれに色々な意見もお持ちでしょうけども、「反原発」という強い主張を掲げて活動してるグループはほとんどありません。個々人はそういう主張をもっているかもしれませんが、それを訴えるのではなく、純粋に、子どもたちを汚染地の外に出したい、という思いで動いている人たちばかりです。それから、被災地の親御さんたちも疲れているだろうから、リフレッシュできる場所を提供するのは大事なことだ、と。そういう趣旨で活動しているだけなんですね。その点では、現場に対する世間のイメージはずれているかもしれません。

田口 保養に参加する当事者と受け入れ側との間に、意識や考え方のギャップが出てくるようなケースはありますか?

早尾 一時期、受け入れ側の中で、そういう点に関して議論されたことがあります。「お父さんお母さんたちは、本当に保養の意義を理解しているんだろうか」と。実際、イベントが盛りだくさんの格安ツアー、みたいな感覚で参加するお母さんたちは、確かにいるんです。受け入れ側としては、一生懸命募金を集めて、少ない人員で色々と障害をクリアして、何年間も保養の機会を提供するために頑張っている。それなのに、実際に参加する当事者(あくまでも親のことですが)の意識が低いように見えると、何となくこれまでの苦労が報われていない、という気分になってくるのだと思います。

田口 なるほど、子どもの被曝に対する親の問題意識が必ずしも「高く」ないということですね。

早尾 反省会のときに、ぽろぽろとそういう意見が出たことはあります。ただ、この話には続きがあるんです。

広河隆一さんのこと
早尾 ちょうどジャーナリストの広河隆一さんが「沖縄・球美の里」の保養案内のブースを出されていて、その反省会の場にも残っていたんです。で、受け入れ団体からぽろぽろと愚痴がこぼれたとき、広河さんがこうおっしゃったんですよ。「格安ツアーという意識で参加して何が悪いんですか? 結果的に、それで子どもたちが汚染地帯から身を離すことができるのだから、十分に意味があるじゃないですか? 親の意識がどうかということは、本質的な問題ではない。本当に大事なのは、子どもたちの被曝を少しでも軽減することです」と。さすがだと思いましたね。その場の誰もがハッとなりましたから。
 広河さんはこうもおっしゃっていました。本来ならどんな子どもに対しても、保養の機会は平等に与えられていなければならないはずだ。ところが、行政はまったくそういうことを無視している。そういう状況下では、親の意識が高い家庭の子どもたちだけに、保養のチャンスが集中しがちになってしまう。親の意識が高いか低いかによって、子どもたちの被曝量が変わってくるということ自体が問題なんだ、と。だからこそ、格安ツアーみたいなノリで参加する家庭があることも、ポジティヴに捉えるべきだ、というわけですね。
この広河さんのご発言で、愚痴は一掃されました。やっぱりチェルノブイリで取材し、子どもたちに向き合ってきた蓄積というのを感じましたね。
 広河さんは同時に、悲観的なこともおっしゃっていました。自分のチェルノブイリでの取材経験からすると、今後は遠からず、本当に健康を害した子どもたちを受け入れなければならなくなると思う、と。これまでの保養活動はあくまでも予防のため、つまり健康被害が出ないようにするための措置だったけれども、そのうちフェーズが変わっていくだろう、というんですね。こうおっしゃっていたのは、たしか2015年か2016年の夏だったと記憶しています。今までは、被曝の不安がないところでのびのび遊んで、楽しくリフレッシュして、デトックスする、という趣旨の保養で済んできたけれども、今後は明らかに体が弱かったり、慢性的な病気を抱えていたりする子どもたちが増えていくだろう、そういう子たちの受け入れをしていかなければならなくなるだろう、自分はそういうビジョンでいま動いている、と。
 非常に厳しい観測ですが、この人が言うと説得力が違いました。

健康相談ブース
田口 健康問題について、具体的な相談が寄せられるということはありますか?

早尾 相談会はたいていの場合、健康相談ブースというのを出しています。例えば、チェルノブイリ救援をやっていた有名な小児科医、振津かつみさんは、ほぼ毎回、相談会に足を運んで「心と体の相談室」を設けてくださっています。あとは「NPO法人快医学ネットワーク」( http://kainet.fem.jp/wkn2/ )の方々も毎回来ています。名前だけ聞くと何だろうと思う人もいるかもしれませんが、要は、体の内側からの抵抗力や免疫力を高めることで体調をよくしていく、という考え方に基づく民間療法の施術家たちです。彼らはそのやり方を相談者に伝えて、セルフケアができるように指導してもいます。この団体には、チェルノブイリ事故の時からずっと活動している人が結構います。被ばくによる被害というのは、基本的に、遺伝子の損傷のために免疫力が落ちることでさまざまな症状として出てくる、だから免疫力を高めることで体自身の力で対応しようという考え方に立っているわけですね。
ところで、健康相談ブースに来る相談者は、今のところさほど多くありません。割合的に言うと、相談会全体に100世帯が来場した場合、だいたい4、5世帯くらいの親御さんが、自分の体調不安や子どもの体調不安について相談している、という感じです。
だから、数的に言えば決して多くはないですけれども、ここ2、3年ほどでしょうか、会場全体の和やかな雰囲気の中に、深刻な表情をして健康相談ブースに訪れる方もいらっしゃいます。
 こういう来場者に関しては、共同代表のみかみさんが全参加団体に配慮を呼びかけてきています。別のブースに来ている相談者であっても、やや精神的に不安定に見える人、子どもの心身の健康に不安を持っている人については、そのつど振津先生につないでください、とあらかじめ伝えておくわけです。ちなみに今年の夏の相談会について言いますと、いわきの相談会に参加された振津さんが、翌日の二本松での相談会には急きょ参加を取りやめにする、というハプニングもありました。

田口 それはどういった事情からでしょうか?

早尾 いわきの相談者から会場に連絡があって、会場には行けなかったけれど調子が悪いのでどうしても振津先生に話を聞いてもらいたい、という強い依頼があったからです。振津先生は、きちんと話を聞いたほうがよさそうだから、と判断されたんだと思います。その相談者の家に直接、訪ねて行かれました。

「健康被害」をめぐる言葉について
田口 保養相談会を組織してこられて、「健康被害」と受け止められたような事例はありますか?

早尾 その点に関しては、何とも言えません。「うけいれ全国」そのものは健康被害について断定的に言うことは控える、というのが基本的なスタンスです。保養を受け入れる側は、子どもたちが被曝を避けるためのお手伝いをしよう、あるいは、少しでも親御さんたちのリフレッシュになれば、という趣旨でつづけています。僕らは、健康被害の因果関係についてあれこれ言える立場ではないですし、安易に発言するのは無責任になるとも考えています。もちろん、いろいろと耳に伝わってくる情報もあります。どこそこの子どもが甲状腺の手術をしたそうだ、といった伝聞情報ですね。でも、それを「評価」をすることはできません。「分からない」としか言いようがないわけです。

田口 なるほど、活動の理念が明確ですね。

早尾 もちろん、「最初から健康被害なんかない」という前提で物事を進める日本政府のやり方には、疑問を感じますよ。甲状腺がんの子どもが今や200人近くになっていますし、その200人という数字も、実際には「経過観察」などの理由でカウントされていない層が存在しているわけですから。もともと小児甲状腺がんにこれだけ注目が集まるのは、この病気についてはほぼ被曝以外の原因が考えにくいから、という理由によるんですよね。ところが、いざこんなにたくさん増えてくると、「過剰診断のせいで見つけなくてもいいものが見つかった」などと言って、何が何でも因果関係を否定しようという方向に動いています。ただ、それでも僕らとしては「所見」を述べるようなことはしません。その具体的な理由ははっきりとあるんです。

田口 それを教えてください。

早尾 まず、受け入れ側の「危機意識」の高さが、乱暴な形で表明されることを防ぎたいからです。だいぶ前になりますが、九州で受け入れ活動をされていた方が、「福島市でばたばた人が死んでいる」という発言をしたことがあったんです。福島市内で相談会を開催したときに、あわせて伊達市や川俣町にある除染で集められた放射性物質を含む汚染土壌の中間保管所を見学したり、特定避難勧奨地点となった家を見学したりしましたが、その人はそれに参加していました。そのスタディーツアーのあとの意見交換会で、「本当に深刻で、福島では人がばたばた死んでいる」などと言い出してしまったんです。いったい根拠はどこにあるのか、データはどこにあるのか、そういうものを示すこともなく、ただ伝聞と勝手な印象でそう発言したわけですが、その場には地元で保養を進める活動をしている人たちも参加していて、不快感を示していました。地元で送り出し側として活動されている人たちは、危機を煽るような短絡が保養活動へのいっそうの反発と孤立を招き、むしろ活動の阻害となることを経験的に知っていますし、実際、被曝被害の長期・広範な影響はそういう単純な話ではけっしてないからです。いい加減な発言は逆効果になるばかりです。
 もう一点、僕らの活動は、細く長くつづけていく、というところを重視しています。あえてドライな言い方をしますが、健康被害に関する論争というのは、たぶんあと十年たっても続いていて、根本的に白黒がつくことはないんじゃないか、と思うんです。チェルノブイリ原発事故の教訓の一つもそれでした。どんなデータを持ってきても、すぐに解釈がどうだこうだ、数字の読み方がどうだこうだ、アプローチの仕方がどうだこうだ、と論争は蒸し返されていますよね。実際に事故から三〇年が経ってもこうです。もちろんこの先、「やっぱりこの点だけは認めざるをえないんじゃないか」というようなデータは確定されるかもしれません。また、そのことによって「保養は必要ですね」という見立てが日本でも共通見解になっていくのかもしれません。
 その点に関しては、本当に何とも言えません。ただし、仮にそのような事態に立ち至ったときに、保養を受け入れるネットワークがもう終了してました、というのでは、やはりまずいと思うわけです。今後、「うけいれ全国」の活動がある程度縮小していくことは避けられません。実際、ずっとこの規模を維持しつづけていくのは、体力的にしんどいんです。でも、このネットワークだけは絶やさないようにしておきたい。この点で現場は一致しています。

「子ども福島」を振り返る
田口 少し話が戻るのですが、早尾さんはさっき、「子ども福島」には問題点もあったことを示唆されていました。この点について、差しつかえのない範囲で教えていただけないでしょうか? というのは、初代の代表である中手聖一さんは一度、宇都宮で講演してくださって、私はとても好印象を持ったんです。中手さんは、「みんなを逃がしてから、最後に自分も逃げます」とおっしゃっていました。その発言のとおり、北海道に避難されてから、活動を総括する形でブックレットを出されたんですが、中手さんの人柄がにじみ出るような感動的な文章でした。

早尾 『父の約束』(ミツイパブリッシング、2013年)というブックレットでしたね。私も編集を担当された方からいただいて、拝読しました。中手さんは「子ども福島」を立ち上げてからちょうど一年間、あの緊急時にとにかく手探りでやるべきことをやられた、と思います。組織の中も風通しがよかったと思いますし、さまざまな点でバランス感覚もよかった。だから、最初の一年間は、緊急事態のなかでよくあれだけのことをやったな、と今でも思います。

田口 具体的にはどういうことでしょうか? 活動が迅速だった、という意味ですか?

早尾 そうですね。最初の一年間の「子ども福島」は、迅速に行動していたと思います。除染、保養、行政交渉、といろんなワーキンググループを「この指とまれ」方式で一気に立ち上げて、自分たちで必要と思うこと、可能なことを模索して、多面的な活動を展開しましたし、放射能に関する勉強も急ピッチで進めていました。最初のミーティングが持たれた2011年4月下旬の時点で、除染に関する議論が始まっていましたから、市民活動という単位で考えると迅速だったと思います。ただ、除染に関しては藁にもすがる思いで検証したけれども、「根本的には不可能だ」という認識になるのも早かったです。ヒマワリがセシウムを吸収しやすい、という話が事故後に浮上しましたが、根本的な解決には程遠いと考えざるをえなかった。表土を剥いでゼオライトを混ぜる、という話もありましたが、作物への移行が減るだけで、セシウム自体が減るわけではありません。しかも膨大な土木のコストがかかるわけですね。そういう試行錯誤を経て、「被曝を避けるなら、できるだけ汚染のない所で長く過ごすしかない」という結論に落ち着いていきました。
 もうひとつ、「子ども福島」の存在が大きかったと思えることがあります。何といっても先に触れた「放射能からいのちを守る全国サミット」(2012年2月11、12日)を福島市で開催したときの母体の一つが「子ども福島」でしたから。最初期の活動を健全に発展させていたら、「子ども福島」は「うけいれ全国」の中でも重要な役割を担っていただろうな、と感じています。

田口 とすると「子ども福島」の問題点はどういうところにあったとお考えでしょうか?

早尾 二年目あたりから顕在化した、組織運営の仕方、物事の進め方です。まだ組織内でゴタゴタが続いているので、あいまいにしか話せないことが多いですが、この団体が全国から見るとその名称からしても、汚染地帯の中心である福島県の代表的な団体とみなされ、キャパ以上の期待と寄付を集めてしまいました。でも、実質は素人集団と言いますか、バラバラな市民の寄り合いにすぎないのですね。しかもみな被災者ですし家族持ちで、ストレスを抱えながら生活しつつ、活動もしている。すでに負担が過剰ななかで、負わされた期待が大きすぎました。実体以上の財源と行動目標をもってしまい、その舵取りができない状況になったのに、中手さんの後を継いだ中心的な一部の人たちが、強引に財源と権限を握ってトップダウンで物事を進めようとしてしまいました。それを批判する声が内部から起りましたが、改善されないうちに、案の定、金銭問題や政治セクト絡みで内部分裂に発展し、まもなく活動休止に陥りました。
 正直に言えば、僕自身も改革を求めて声を上げた一人でした。「会計を代表から外して独立した会計担当をつけるべき」、「特定の政治セクトと提携しないでセクトとは距離を取るべき」、「こういう健全な判断ができるよう共同代表制に移行すべき」、この三点を僕も含めて数人が何度も提言していました。結局2012年度中はこの声は実現されず、トラブルが表面化して活動停止になってから、この三点はすべて取り入れられましたが、時すでに遅しでした。いま思えば、被災者として生活しながら活動もしている人たちに、キャパ以上のことを期待するのが酷だったのかもしれません。
 そして内部分裂はそれでも解決しておらず、裁判沙汰にまでなっているようです。僕としては、残念なことではありますが、「うけいれ全国」のネットワークを守るためにも、「子ども福島」には加入団体から退いてもらいましたし、僕自身も「子ども福島」から抜けることにしました。金銭問題とセクト問題を引き起こしてしまっては、市民や行政から不要な不信感を買うばかりで、活動の妨げになるからです。

今後の展望に向けて
田口 改めて「311受入全国協議会」の活動を振り返ってみると、どのように総括できそうですか? また、今後の展望についても教えてください。

早尾 第一に、「うけいれ全国」は、自発的な横のネットワークであるということを特徴としています。行政主導ではありませんし、どこかの大きなNGOが中心というわけではない。まさに災害時に必要な行動を、自らの意思と判断で取ることができる人たちが、全国規模で繫がっているということは、特筆に値すると思います。第二に、現地相談会を基盤としてできたネットワークであり、保養や移住の支援活動を実際におこなっており、そして被災地現地に足を運んでいる団体と、そして被災地内で保養の普及と相談活動を進めている団体のネットワークであるということも、大きな特徴です。受け入れ側であれ、送り出し側であれ、当事者性をもち、そして悩める生身の人間と接する経験を重ねてきた人たちばかりです。
 もちろん大震災があったことは悲劇ですし、そんなことは起らないほうがよかった。それは言うまでもないことですが、しかし、それを受けて出来上がったこの全国ネットワークは、原発震災があまりにも甚大で広範囲かつ長期にわたるものであったせいもありますが、それに見合うように、全国規模で長期的なものになりました。これは前例のない稀有な出来事だと思っています。

投 稿: Hayao

2018 年 8 月 11 日 7:52 am

カテゴリー: その他,全国会議,相談会